常滑 歴史
常滑市域を含む知多半島中部では粘土を豊富に産出するため古くから陶器が生産された。平安時代後期頃から中世にかけて常滑市とその周辺で生産され始めた「古常滑」と呼ばれる焼き物は太平洋に沿って日本全国に広まり、 北は青森から南は鹿児島まで、全国の中世遺跡において出土する。室町時代には三河の守護である一色氏が尾張の知多半島に支配を広げ、市域北部の港町である大野に大野城(宮山城)を築いた。 のちに一色氏の被官である佐治氏が主家にかわって大野城主となり、佐治氏のもとで大野は伊勢湾西岸の港湾として繁栄した。戦国時代には、知多郡緒川(現東浦町)の領主水野氏の一族が現常滑市域中心部に常滑城を築き、 大野城の佐治氏と伊勢湾東岸の水運を二分した。しかし常滑水野氏は本能寺の変直後に明智光秀に味方したことから没落し、佐治氏も四代一成の時に小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と敵対し大野城を追われた。 また、常滑の焼き物も茶の湯が流行する中で新しい嗜好からは好まれなくなり、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて瀬戸焼などに押され衰退した。
江戸時代には、現市域の村々は尾張藩領に入った。常滑の諸村は平地が少なく開墾の余地に乏しいことから廻船、酒造、木綿生産などの工業、商業が行われる町場的な性格が強く、常滑焼も江戸時代後期になって復興した。 この時代にはかつて広く分散していた焼き物の生産地が現市域中心部にあたる常滑村に集中するようになり、焼き物の煙突が立ち並ぶ現在の常滑市街地の原型が形作られた。明治時代になると土管、タイルなども生産されるようになり、 近代的な窯業の町に発展した。中でも1924年創立の地元製陶会社「伊奈製陶」(現INAX)は便器など衛生陶器の分野において全国第2位のシェアを占め、タイルにおいては国内はもとより世界的にもトップとなる大企業に成長する。
戦後には、「昭和の大合併」により、1954年に常滑町、鬼崎町(おにざきちょう)、西浦町(にしうらちょう)、大野町(おおのまち)と三和村(みわむら)の4町1村が合併して常滑市が成立した。1957年に南の小鈴谷村(こすがやむら) の一部を編入し現在の市域に拡大した。近年はINAXの常滑本社工場をはじめとして工場の閉鎖、中小工場の廃業が相次ぎ、経済の停滞傾向が著しい。合併時に約5万人であった人口は漸次増加して1975年には5万5000 人を突破したが、その後は頭打ちから減少に転じ、2000年代には5万1000人を割った。これに対して窯業家や市民によって焼き物の町としての観光化と窯業の再活性化が努力されており、中部国際空港の開港にともない労働 人口は少しずつ流入している。しかし、教育施設や商業施設等が周辺市町村より(面積に対して)不足しており、家族を連れての転居の場合は通勤時間が掛かっても周辺市町村に定住する形態がかなり多いようである。 その悪循環をいかに解決するかが、常滑市が直面している大きな課題である事は間違いない。
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